投稿日時:2021/08/06(金) 12:33
令和3年8月6日 2021年
ドクター松林の「待ったなし」
原爆投下当日(昭和20年8月6日)の実相
●あの日の祖父の姿を写真で発見
広島市出身、仁整形外科院長の松林保智です。去る令和3年6月6日、父保英が広島市にて その生涯を終えました。物語は75年遡り、祖父保太郎の原爆被爆直後の姿を写真が捉えていま した。
その日その時間に私の祖父松林保太郎(内科医・広島市中区千田町・開業医)は爆心地から 1・2㎞しか離れていない自身の診療所で被爆しました。幸い、遮薇物があったため奇跡的に祖母 とともに命には別条ありませんでした。
その時のそしてその後の詳細な地域医師会への寄稿文と娘に宛てた手紙が最近発見され、当時 の生々しい状況と被爆直後祖父が廃墟と青空の下、医療活動をしていたことが記録されていまし た。その中で、中国新聞(広島をはじめとする中国地方の地方紙)の写真部員だった松重氏によ る被爆直後の最初の写真に祖父が医療活動を行っている姿が映っていたのです。この写真は広島 平和記念資料館に掲示されていますが、被写体の人物特定の作業が今も続けられています。
ここからは、デジタル中国新聞のこの記事から順次ご覧ください。今年の3月~6月21日付 中国新聞に私の母の写真と証言が載っています。
https://www.chugoku-np.co.jp/column/article/article.php?comment_sub_id=765743 &comment_sub_id=0&category_id=1183
登場人物:記事本文を読み解く上で、松林家の祖先及び親族について
<〇松林保太郎(祖父・1890~1961)
広島市中区で内科医院開業。爆心地より1・2㎞の自宅医院で被爆。その後2年にわたる救護・診療活動の日誌を娘に託す。この度、被爆3時間後の救護活動の姿が写真に残り、娘への手紙や医師会会報誌から活動内容が明らかに。
〇松林 保英 (父・1030~2121)
広島市中区千田町で内科医院を引き継ぐ。広島二中時代に広島市西区南観音町の動員先工場で被爆。
保太郎次男
〇門田 禎子 (叔母・~1946病死)
保太郎次女。医師。福山市へ嫁ぐ。保太郎からの手紙を保管。
〇松林 登紀子(母・現役内科医師 89歳)
夫保英、長男 松林保智(1961~)。
広島市中区千田町の医院で診療継続中。
ドクター松林の「待ったなし」
原爆投下当日(昭和20年8月6日)の実相
●あの日の祖父の姿を写真で発見
広島市出身、仁整形外科院長の松林保智です。去る令和3年6月6日、父保英が広島市にて その生涯を終えました。物語は75年遡り、祖父保太郎の原爆被爆直後の姿を写真が捉えていま した。
その日その時間に私の祖父松林保太郎(内科医・広島市中区千田町・開業医)は爆心地から 1・2㎞しか離れていない自身の診療所で被爆しました。幸い、遮薇物があったため奇跡的に祖母 とともに命には別条ありませんでした。
その時のそしてその後の詳細な地域医師会への寄稿文と娘に宛てた手紙が最近発見され、当時 の生々しい状況と被爆直後祖父が廃墟と青空の下、医療活動をしていたことが記録されていまし た。その中で、中国新聞(広島をはじめとする中国地方の地方紙)の写真部員だった松重氏によ る被爆直後の最初の写真に祖父が医療活動を行っている姿が映っていたのです。この写真は広島 平和記念資料館に掲示されていますが、被写体の人物特定の作業が今も続けられています。
ここからは、デジタル中国新聞のこの記事から順次ご覧ください。今年の3月~6月21日付 中国新聞に私の母の写真と証言が載っています。
https://www.chugoku-np.co.jp/column/article/article.php?comment_sub_id=765743 &comment_sub_id=0&category_id=1183
登場人物:記事本文を読み解く上で、松林家の祖先及び親族について
<〇松林保太郎(祖父・1890~1961)
広島市中区で内科医院開業。爆心地より1・2㎞の自宅医院で被爆。その後2年にわたる救護・診療活動の日誌を娘に託す。この度、被爆3時間後の救護活動の姿が写真に残り、娘への手紙や医師会会報誌から活動内容が明らかに。
〇松林 保英 (父・1030~2121)
広島市中区千田町で内科医院を引き継ぐ。広島二中時代に広島市西区南観音町の動員先工場で被爆。
保太郎次男
〇門田 禎子 (叔母・~1946病死)
保太郎次女。医師。福山市へ嫁ぐ。保太郎からの手紙を保管。
〇松林 登紀子(母・現役内科医師 89歳)
夫保英、長男 松林保智(1961~)。
広島市中区千田町の医院で診療継続中。
